[2020年5月24日]

5月24日 曇りのない眼(まなこ)で見るということ

 

 

 先週は、八正道の考え方についてご案内しましたので今日は、八正道の中の第一の正道についご案内します。八正道とは、仏教において涅槃(ねはん)の境地=悟りの境地に達する上で実践すべき8つの教えのことを意味します。そして、八正道は正見(しょうけん)、正思(しょうし)、正語(しょうご)、正業(しょうごう)、正命(しょうみょう)、正精進(しょうしょうじん)、正念(しょうねん)、正定(しょうじよう)の八つからなっています。今日は、その中の正見についてご案内します。

 

 

正見とは、物事を正しく見ること。つまり、世の中や自分の周りで起きていることに対して、ありのままに見つめるということです。この物事をありのままに見るとは一体どういうことなのでしょうか。人が情報得る手段は大きく分けて2つあります。1つは、見る。2つは、聴くです。仏教では、この自分が情報を得る2つの行為(見ると聞く)のことを合わせて正見の見るとしています。この見る行為・聴く行為、双方に共通するのは何を見て・聴くかは自分で選択できるということです。人は、千差万別です。人それぞれ価値観や考え方が違います。同じ物を見ても、それぞれが違うことを思うのが人間です。例えば、ハワイの砂浜の写真を見て今年の夏休みはハワイに行きたいなと思う人もいれば、ハワイは暑いから苦手だと思う人もいます。また、ピニャコラーダ飲みたいなと思う人もいるかもしれません。価値観や考え方が違うから、人は同じ物を見ても人それぞれ異なった見方をしてしまいます。

 では、どのようにすれば物事を正しく見ることができるのでしょうか。仏教では「正」ということ言葉の意味を一般的に解釈されている正しい・間違っているという解釈での「正」という意味で捉えていません。仏教では、「正」という言葉の意味を「偏らない」と定義しています。つまり、正見とは偏った見方をしないということになります。しかし、偏った見方をしないというのは、人間にはその特性上困難です。なぜなら、人それぞれ価値観というフィルターがありそのフィルターを通して世の中を見ているからです。そして、そのフィルターを通じて見たいように世の中を見るのが人です。正見をするためには、我々は自分のフィルターを外す必要があります。フィルターを外して、自分の価値観を唯一の正解とせず世の中に存在する多くの価値観を極力受け入れることが正見する上では重要になると考えられています。

 先日、テラスハウスに出演していた木村花さんがお亡くなりになりました。ツイッターなどのソーシャルメディアで過度な誹謗中傷を浴びたことを苦にした自殺が原因とされています。これは、人が持つ偏った見方が招いた結果だと考えます。一側面からみると、木村さんが番組内でしたことは行き過ぎだったかもしれません。しかし、だからといって木村さんを命を捨てたいと思うまで誹謗中傷で追いつめて善いことにはなりません。「自分は正しい」、そして「木村さんは間違っている」だから木村さんを懲らしめないといけない。誹謗中傷の原因は、このような偏った正義感が招いたことでないかと考えます。自分が唯一正しく、相手が絶対的に間違っているというのはこの世においては中々存在しません。多くの場合は、どちらも正しい部分もあり間違っている部分もありません。それを理解した上で、我々は日頃起きることを見る必要があります。

 そして、何か思いついたり意見をもったらそれを絶対に正しいと思わないことが正見する上では重要です。自分の意見を否定する意見も世の中には多数存在します。自分と違う意見を受け止め、違う見方で見ることで偏った見方をすることから離れることができます。それが、正見に繋がるのではないかと思います。沢山の情報が瞬時に多くの人に伝わる時代だからこそ、情報の発信者や受信者である我々には今まで以上に正見が求められるのでないかと思います。